BLOGTachibana の日記
寅草紙〜とらそうし〜 其の壱
2022.4.14
【寅印始めました】
原料から一貫して作る紙をブランド化して確立させたいと、以前から考えておりました。
父も同じようなことを思い、取り組んではいたのですが──。
これからは、私自身の想いものせていこうと。
この寅草紙では、「寅印」について発信していきます。
全国には様々な和紙の産地がありますが、原料作りと紙漉きは分業となっているのが主流です。
桐生和紙工房は江戸前期から作られていた「桐生紙(きりゅうがみ)」の流れを汲んでおりますが、当時は原料の楮は全て地場のもので賄われておりました。しかし現在は原料の大部分を購入しているのが実情です。
これまでも原料作りの技術も継承してきましたが、これからも少量ずつでも確実に作り続けていきたい…
その様な決意を胸に、「寅印(とらじるし)」ブランドを立ち上げました。
何故、「寅印」なのか。
現在の群馬県桐生市梅田町にあたる桐生川上流域はかつて、「桐生紙」の産地でした。
桐生紙に関する文献は非常に少なく、生産の起源については分かっておりませんが、天明七年(1787)より享和元年(1801)まで、当地方の豪商書上文左衛門が江戸へ桐生紙を送ったとの記録が残されております。
また、大正末年頃までは通い帳などの帳面紙や障子紙として、かなりの量が生産されていました。往時は二十余戸の漉き屋があったそうです。
高祖父 星野寅吉(前列右から3人目、昭和初期)
紙を漉く祖父 冨吉(昭和50年頃)
川で楮を洗う両親(昭和50年代)
紙を漉く父 増太郎(平成15年)
私の生家である星野家では四代目、高祖父寅吉の頃が最も生産量が多かったと思われます。また、祖父の六代冨吉(1988年没)の談話によると「寅吉の手掛けた紙は品質が良く「寅印」と呼ばれ、他の桐生紙よりも高値で取引された」のだとか。
つまり「寅印」は、桐生和紙にとっての信頼の証。
当時の紙といえば、楮を育て、冬場の農閑期に紙を漉く──
ここに「桐生和紙」の源流を見る思いです。
私がこれから始める「寅印」は、復刻ではありません。
当時のスピリットに想いを馳せながらも、今の私の解釈で作る紙。
楮と向き合い、大地に育まれての紙作り。
偉大な先人達の知恵と魂を受け継いで、一枚一枚紙を漉き重ねていくように、仕事を重ねていきたいと思います。